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【みなみうら奮闘記vol.1】授業をやってみませんか-はじまりはたいてい気軽に,突然に

2024.07.26
  • 東広島市

南浦 涼介(広島大学)

みなみうらの「授業」への向き合いかた・関わりかた

思えば「授業」というものに対してわりと一生懸命に向きあってきたほうだとは思っている。
とりわけ,「授業をする」ということを後ろ向きに考える大学教員は決して少なくない中で,僕は幸いにも,「授業をする」ということを結構真面目に考えてきた人生だった。それは,大学教員になる前に10年ほど,日本語教師,小学校,中学校,高等学校の講師をしながら生活をしていたことや,大学院自体が「授業力」を向上させていくことにかなり力を入れる教科教育学(社会科)にいたということもある。
こうしたことでわりと授業をすることにはこだわりを抱いていたわけだけれども,自分自身があらためて小学生に授業をするということになるとは予想だにしなかった。そういえば,大学教員になる直前,2010年9月の終わりに小学校で授業をしながら,ああここで自分の小学校での授業というのは人生で終わりなのだなあと思いながら,とはいえ淡々と日常の形で授業を終えたことを覚えている。
それからの僕は,「授業」といえば大学で学生たちに対して授業をすることか,あるいは小中高等学校の学校現場の先生方の授業に対してアドバイスや助言をするという形になることがどうしても多かった。

「大学のセンセ」という権威性へ抱く違和感

気がつけばそれなりに年齢を重ね,40代半ば。自分自身が「外国人児童生徒教育」という仕事をしていたこと,この領域が最近日本の中でも光が当たってきたこともあってお仕事の依頼も多く,キャリアの積み重ねも手伝って学校現場に対する僕の関わりかたは,「アドバイザー」という形が次第次第に増えてきた。これが良い流れかどうかはわからない。アドバイザーという形での学校現場への関わりかたは,それはそれで大切なことなのだけれども,別の見方をすれば「大学のセンセ」という権威者が学校現場に割って入ってものを語り,人はそれを聞くという形になりやすい。専門家という権威は,えてしてすぐに場を支配する権力に姿を変えるのだ。自覚はあるが,批判的意識はあるが,そうして形づくられていく「キャラ」はなかなか思っていても周囲のはたらきかけがあるために変わらない……

「先生、授業やってみませんか?」はじまりは突然に…

そんな忸怩たる思いを持ちながら,大学教員になって13年がたった2023年の7月。東京から大学院生時代を過ごした広島に再び移動してちょうど3ヶ月がたった頃のことだ。
日本カリキュラム学会という学会があり,そのシンポジウムに登壇をしたときの帰り道のこと。学校や地域の多文化共生に関する学会発表を聞いていた同僚の草原先生から,あの発想を用いてあるプロジェクトをやってみませんか? というお話を「軽く」された(いや,ご本人は重く話されたのかも知れないけれども,場所が電車待ちのカフェだったのもあって,気軽に話を聞いて気軽に受け止めたのだ)。東広島市教育委員会事務局に向けて「多言語多文化企画案」として,小学校3年生くらいから中学生向けの授業,できれば外国人児童生徒もそこに一緒に入れるような授業ができないだろうかという内容だった。

先の学会のシンポジウムでまさに僕は「外国人児童生徒の教育を日本語取り出し教室のものにしてはいけない,クラスや学校全体のものにしていかないとだめだ!」と豪語したものだから,それは後には引けない。いや,もう少しマジメな話をすると,広島大学のある(ついでに言えば自分も家族と住んでいる)東広島市はあまり知られていないところなのだけれど,中四国で最も外国の人の割合が高い街である。そうした場所だということもあって,「東広島市教育委員会と一緒に多言語多文化企画をする」というのはとても魅力的だった。ということで「やってみたいです」と僕は返事をした。

このときは,まだ僕はこのプロジェクトがどんな規模のものか,その概要も知らなかったのだ。というよりは,プロジェクトというものはたいていそうなのだけれども,はじまってみると結構大変だ。ただ,はじまりというのはわりといつもこういうふうに,なんとなく,気軽にはじまっていくことが多い。その後,ヒーヒーと汗ほとばしる展開になっていくことになるのだけれども……

この記事を書いた人
Ryosuke Minamiura
南浦 涼介

2023年の春に広島大学にやってきました。「先生」の仕事は23年目,大学の先生の仕事は14年目,広島大学の先生の仕事は2年目の古米のような新米です。授業や多文化共生の教育の仕事が大好きですが,ラーメンも好きです(最近控え中)。